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楊 定(よう てい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。字は整修。涼州の人。 == 事跡 == 当初は董卓配下であったが、董卓暗殺後は王允に従った。しかし王允の傲慢な態度に怒り、胡軫と共にの下に寝返って、長安を攻め落としている。李の下では、安西将軍となった。 興平2年(195年)、李と郭汜が対立すると、楊定は郭汜側につき、自陣に献帝を迎え入れようと画策した。しかし、先手を打った李に献帝を奪われてしまった。その後、張済の調停もあって李と郭汜らは和解した。楊定は、郭汜・董承・楊奉らと共に献帝を護衛して、洛陽へ向かうことになった。同年7月、後将軍に任命されている。 同年10月、洛陽へ向かう途中の新豊で、郭汜が献帝を独占しようと企んだが、楊定は楊奉と共に郭汜を破り追い出した。さらに華陰まで進むと、その地に駐屯していた段煨が献帝に物資を献上し、自分の本営に招き入れようとした(なお、段煨には献帝を政治利用する意図は無かったという)。しかし段煨と不仲だった楊定は、これを阻止しようと段煨が謀反を企んでいるとして攻撃したが、10日経っても勝負は決しなかった。その後、李らが段煨を支援し、郭汜が楊定の進路を遮ってしまったため、楊定は進退窮まって荊州へ逃走した。その後は史書に記述が見当たらない。 小説『三国志演義』では登場しない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊定 (後漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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